「ねえイザヤおにいちゃん」

うっかり聞き逃してしまいそうなその小さな声に呼び止められ、振り向くと粟楠茜が俺のコートの裾を少しつまんで、
唐突に立ち止った。もう時刻は十二時を回るころだろうか。鮮やかなライトの光に照らされる彼女の姿は、池袋の町
にはあまりにも似合わない。そんなことをぼんやりと考えていると、彼女はなにか堪えているように、ぎゅっと俺の
コートを握りしめて、唇を噛んだ。

「どうしたんだい茜ちゃん」

問いかければ、まるで助けを請うかのように俺を見上げるけれど、また彼女は躊躇いがちに瞳を逸らしてうつむいて
しまった。その体はふるふると震えていて、どうにも滑稽で、あまりにも無様、だった。はあ、と心の中でため息を
吐く。もちろん決して表情には出さない。

「…怖いかい?」

これ以上ないほど優しく、慈悲のある声色で、その言葉を紡ぐ。膝を押し曲げて、背のちいさい彼女と同じ目線にな
って、彼女の頬に手を当てる。綺麗に首元で切りそろえられた髪の向こう側で、彼女はいまにも泣きそうな表情をし
ながら、こくり、とほんの少しだけうなずいた。

「そんなに怖いなら、家へ戻るかい?」
「、っ、それ、は、いや、」
「じゃあどうする?」

君が決めることだよ、と甘ったるい言葉を彼女の耳元で囁くと、彼女は一層表情を歪ませて、心底辛そうに目を伏せた。
俺の発する一言一言が、少しずつ、しかし確実に彼女の心を蝕んでいく。

ああ、本当に人間というのはなんて愚かだろう。

この言葉自体は、彼女にとって単なる問いかけにすぎない。何の強制力もない、ただの提案だ。けれどその一つ一つが
彼女の世界を左右させる。
この感覚が、たまらない。他人の未来を弄ぶ、この痛みにも似た、心地よい感覚が。彼女には、もはやほかの選択肢な
ど存在しない。俺が用意したシナリオ通りの選択肢しか。

ねえ、と粟楠茜がつぶやいた。消え入りそうな声だった。
「おにいちゃんは、私のこと…すき?みんなみたいに私のこと怖がらない…?」
それは弱弱しい問いかけだった。
ぽろぽろと瞳からこぼれた涙が頬をつたって、冷たいアスファルトに落ちる。こんな時に彼女の信じる『イザヤ』なら、
どんな風に答えるか。それをきっと俺は一番よく知っている。きっと、ふわりと彼女の体を寄せて、こつん、とお互い
の額を合わせて、彼女の瞳を見つめる。それから優しげな頬笑みを張り付けて、こう言うのだ。

「…怖がらないよ、茜ちゃん。俺は君が大好きだから」

心が壊れかけた少女にとってその言葉がどんなに救いになるのだろうか。その一言だけで、彼女の表情からは、一切の
悲しみが消え、そのすべてが、喜びと、俺に対する絶対の信頼によって上書きされていく。

「…行く、イザヤおにいちゃんと一緒に行く」

だって、私もイザヤおにいちゃんのこと、だいすきだから。

その選択によって何が起きるのか、彼女はまったく気づいていない。自分が、ただ利用されているということにさえ。
これからだって、気づきはしない。気付かせはしない。誰にも俺の邪魔をさせるつもりはない。

「…ありがとう」


ああ、本当に、

人間はなんて愚かで騙されやすくて、それでいてどうしてこんなにも愛しいんだろう。



嘘つきピ
11/10/07
(追記)公式にまんまとやられました