薬品と煙草、それから微かに血の匂いを漂わせながら、目の前の男はゆっくりとこちらを振り返った。
その細められた瞳はもれなく胃痛と吐き気を僕に齎して、満足げに底光りする。
それだけで焼けつくように喉に込み上げくるその胃液はきっと生理的嫌悪の象徴だろう。
いつまで経っても決して慣れることのないその空気に僕は静かに目を逸らす。
これがもし、隊の上官であったなら、僕はきっと躊躇うことなくライフルの引き金を引いている。
そう、この男は、自身が億劫そうに下げている紙きれ一枚のおかげで、今もなお変わりなく、呼吸をしていれるのだ。
「薬、もう飲んじゃったんだ?」
馬鹿だね。そう言って、また医者は僕を嗤った。そこににじみ出る奴の性格の悪さに、僕の中で誰かが小さく舌打ちをした。
薬が切れてしまってからどれだけ時間が経っているのか、今の僕にはもう思い出せないけれど、
少しずつ、しかし確実に
僕と彼の境界があやふやになっていることだけは、錆びた頭でも理解できた。
僕が眠り、彼が起きる。その単純な循環に理由など存在しないことを僕はずっと昔に気がついた。
これは硝煙と死体の焼ける匂いのなかであまりにも明確に定められた、僕らのシステムなのだから。
「、はやく、薬、ください」
「あんまり飲みすぎると死んじゃうよ」
ひらひらと目の前で薬ビンが振られ、医者の目が鈍く光る。
試されているのか、脅されているのか、はたまた、ただからかわれているのか、なんて今の僕には考える余裕なんてない。
気がついたときには医者の襟首を捻りあげて、マウントを取るように、その身体に馬乗りになっていた。
左手は医者を掴んだままで、右手でそっと腰のナイフに触れた。
これを使えばきっと一瞬にして彼は目覚める。
人を殺す苦しみを、
怖くて、怖くて、死んでしまいたいと願う悲しみを僕は痛いほど知っているのに、また僕は彼に頼ってしまう。
そんな自分が嫌いで、だから薬を飲んでいるのに、結局何一つ変わらない。
馬鹿で弱虫な軍人のまま、退くことも進むことも出来ずに、今もなお戦場でたった一人、立ちつくしているのだ。
「うるさい、早く、じゃないと、」
「早くしないと、なに? もう一人の軍人さんが来ちゃうのかな?人殺しの軍人さんが?」
こんな状況になってでも、医者の表情はさっきから何も変わらない。
この人は僕と同じように場数を踏んでいるから、こんなこときっとどうってことないのだろう。
へらへらと笑うそいつの顔がひどく、ひどく腹立たしい。こいつが死ぬ時になってまで、この余裕を貫いていられるのか。
それを考えるだけで俺の鼓動がどくどくと高鳴る。
これこそ、この高揚こそ、生の喜びだ。さあ、殺そう、殺して、この男に楽園を見せてやろう、なあ、
「駄目だね君は。まだまだ全然駄目だよ。君は勘違いをしてる。いや、本当は気付いてるね?」
「っ…!! 黙れ、黙れよ、ランピー。頼むから…」
「馬鹿な君に、はっきり教えてあげるよ。
君はね、病気じゃないんだよ。薬があれば治るとか、手術をすれば治るとか、そういうものじゃない。
君はね、多重人格者なんかじゃないんだ。
もちろん正常でもない。君 は 、 た だ の、
」
その先の言葉が僕の鼓膜に届いたとき、僕は僕ではなくなっていた。
最後まで必死に縋っていたナイフの柄の冷たさだけが、最後まで僕の感覚に残留して、あとは、ただ、それだけだった。
そして、迫りくる、まるで深淵に堕ちるかのような抵抗できない眠気。僕の瞳が閉じられる。
選手交代だ、と彼が笑った。僕が俺になり、世界が暗転していく。
ああ、ああ。ぐしゃぐしゃと何か、生ぬるい物に触れている。べとべとと何かが顔に張り付く。
それがいったいなんなのか、僕には知るすべがない。ああ、僕はまたこうやって、誰かを殺す夢を見る。
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